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北京駐在スタッフの随想

No.012 「エイズ孤児たちの大学受験」

2017年7月14日
特任教授 林 光江
 毎年6月、中国で最も熱い話題のひとつは、全国統一大学入試「高考」である。6月上旬の試験に向けて、受験生、保護者、高校の教職員はもちろん緊張した日々を送るのだが、当事者でなくとも「高考」に関心を寄せる人は多い。試験当日の朝、開始時刻に遅れそうな受験生を無料で試験会場まで送ってくれたタクシー運転手の話、出がけに親と口論し受験票を持たずに家を出てしまった学生の話、受験生のためにペットボトル飲料水を無料で提供する市民の話など、さまざまな話題が伝えられる。そして6月下旬、成績が発表されると、各省や市でトップの成績をとった学生へのインタビューや、その出身高校の教師の話などがメディアを賑わす。受験生とその親は各大学の出した合格ラインを見比べながら、少しでも上のレベルの大学へ志望を出すことに腐心する。一方、大学側も成績優秀者をライバル校に取られてはなるまいと必死である。教員がグループを作って全国各地に出張し、高得点の学生に働きかける。何としてでも来てもらいたい優秀な学生には高額な入学準備金を提示する場合もあると聞く。
 例年同様に繰り広げられる狂騒曲の中で、6月初めに伝えられたあるニュースに目がとまった。中国西部、山西省臨汾市にある「紅絲帯学校」からはじめての受験生が「高考」に参加するというものであった。中国語の「紅絲帯」とは「レッド・リボン」を意味し、これはHIV感染者やエイズ患者に対する支援を表わす世界的なシンボルである。
 中国では1990年代に農村の貧困地域で行われていた「売血」によってHIV感染が広まった。売血行為自体は違法ではなく、採血も公立の衛生センターで行われていたのだが、当時HIVに関する知識があまり普及しておらず、機材の消毒が不十分だったことが主な原因で、感染が爆発的に広がったと言われている。特に多くの地域で、血小板や血漿といった特定の成分だけを採取した後、それ以外の赤血球などを再度提供者の体内に戻すという方法をとっていたために、一部感染者からのウイルスが多くの提供者の体に入りこんだのである。
 「紅絲帯学校」の学生たちは出生時に母親からHIVに感染しており、その多くは両親をエイズで亡くした、いわゆる「エイズ孤児」である。中国政府は2003年から、貧困層のHIV感染者に対して無料で治療を受けられる措置を講じており、感染児童・生徒の無償就学権利も公的に保証されている。しかし一般社会におけるHIVやエイズに対する偏見はいまだ根強く、実際には受け入れてくれる学校がなかったり、果ては村から追い出される子どもまでいたり、非常に厳しい課題をかかえている。「紅絲帯学校」の創設者・郭小平氏はこの12年間、全国各地から行き場のない子どもたちを受け入れ、教育と生活の場を提供してきた。そして今年、はじめての大学受験生を送り出したのである。特に話題を呼んだのは、「紅絲帯学校」が彼ら16名の受験生のために独自の受験会場を設置したことである。生まれながらにして偏見の中で育った「紅絲帯学校」の学生が、少しでも心理的な負担を減らして試験に臨めるよう、普段勉強している教室で受験できるようにと郭校長が山西省の教育部門にかけあい、実現したものである。他の試験会場と同様に、不正を防ぐための監視カメラや通信電波遮断装置も設置された。
 このニュースが伝えられるや賛否両論、大きな反響が起きた。賛成派の中には、郭校長の生徒を思う気持ちを称える声ばかりではなく、他の受験生の気持ちを考えると、ただでさえ過敏な時期にHIV感染者と同じ場所で受験するのは心理的負担を増やすので、会場を別にするのは妥当という意見もある。かたや反対派は、この措置は逆にHIV感染者にレッテルを貼ることとなり、蔑視につながるのではないかと言う。HIVは性交渉や輸血など精液や血液の接触によって感染を引き起こすのであり、同じ教室で試験を受けるだけでは感染するはずもないのに過剰反応ではないかとの意見である。また、今後大学や社会に出てからも特別扱いしていけるわけではないのだから、早い時期に同じラインに立たせた方が良いのではないかという声もある。
 この問題に正解はない。しかし、いずれにしてもこのニュースをきっかけにHIVについて、そしてHIV感染者との接し方についての科学的知見が広く社会に知られるようになったことは大きな収穫だったと思う。7月中旬現在、彼らの進路を伝える報道にはまだ接していないが、できるだけ多くの大学が「紅絲帯学校」の学生に理解を示し、彼らのために勉学の道を開いてくれることを願うばかりである。