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北京駐在スタッフの随想

No.020 「「わからない」ことと向き合う」

2018年11月26日
特任教授 林 光江

スペイン風邪が猛威をふるった1918年から数えて、今年は100年目にあたる。この節目の年に中国のウイルス学者、高福(George Fu Gao)中国科学院院士が中心となって「世界インフルエンザ・デー」の制定を呼びかけた。去る11月1日、中国広東省・深圳(Shenzhen、日本語読み:シンセン)で開かれたシンポジウムの席上でのことだ。この会議には東大医科研の河岡義裕教授をはじめ世界各国からインフルエンザ研究の権威が集まり、世界保健機関(WHO)の事務局長テドロス・アダノム博士からもビデオレターが届いていた。

ふと気になって調べてみると、結核、マラリア、エイズ、肝炎についてはWHOが公式に定めた国際的な記念日がある。それ以外にも糖尿病、がん、髄膜炎、狂犬病、ダウン症、血栓症、メンタル・ヘルス、骨粗鬆症、アルツハイマー、自閉症など、さまざまな「世界○○デー」が見つかった。また身近な例では、医科研OBである渡邉俊樹東大名誉教授が理事長を務めるHTLV-1(ヒトT細胞白血病ウイルス)学会でも、11月10日を世界HTLVデーと定めたところである。それぞれの記念日には、研究者や医療従事者、患者や家族が中心となって、治療や予防についての情報交換や医療相談などを行っているが、対象は当事者や関係者ばかりに限らない。例えば12月1日世界エイズデーの前後には、一般向けに公開講座が開かれたり、芸能・音楽イベントを取り入れた啓発活動が行われたりして、HIVとエイズに関する知識を広く社会に普及させる場が設けられる。このような活動は人々の疾病予防に役立つだけでなく、その病気に対する社会的偏見を軽減させる助けにもなるだろう。

「わからない」ことや先の見えないことは私たちの不安を掻き立てる。2002年から2003年にかけて中国で発生したSARSの流行がそうだった。当初、感染経路が解明されていなかったため、何をしたらいいのか、何をしてはいけないのかが「わからない」。北京の大学内では、予防のためとして、お酢に水を加えて炊いたり、風邪の時によく処方される漢方薬の一種である「板藍根」の煎じ薬を学内の食堂で無料提供したりしていた。この「板藍根」は薬局で簡単に購入できるため、当時はみな先を争って買ったと聞く。この薬のおもな効能は解熱、解毒なので、SARSの「予防」にどれだけ効果があったのかは疑問であるが、「わからない」ことから来る不安がもたらす行動とはそういうものだ。「板藍根」も人々の不安解消という点から見れば、一定の効果を果たしていたといえるだろう。

季節性インフルエンザについては多くの人が、かかっても何とかなるだろう、くらいに考えていると思う。しかし新型インフルエンザとなると話は違ってくる。感染力はどれほどなのか、感染したら症状がどれだけ早く進行するのか、致死率はどれくらいなのか、治療薬は足りるのか、ワクチンはすぐにできるのか…われわれ一般人には予測できない「わからない」ことが多いため、不安にかられ、右往左往する。

2009年から2010年にかけて流行した新型インフルエンザは、ブタの間で流行していたインフルエンザウイルスが人に感染するようになったもので、当初は「豚インフルエンザ」と呼ばれていた(その後、「インフルエンザA(H1N1)」、「パンデミック(H1N1)2009」などと呼称が変わった)。メキシコから始まったこのインフルエンザはまたたく間に世界中で感染者を増やしていったため、WHOは発生確認から2週間で国際緊急事態を宣言し、その7週間後には警戒水準を最高のフェーズ6に引き上げた。北京に駐在する私たちも、生活面で注意すべきことは何か、通勤時の移動手段をどうすべきか、万が一の場合医療機関の受診はどのようにするか、自宅待機や帰国のタイミングの判断は…と悩ましい日々を送った。パンデミック(H1N1)2009はその後次第に流行の速度をゆるめ、中国では2013年11月から一般の「流行性感冒」として統計処理されることとなったが、また別の新しいインフルエンザの流行がいつ、どこで起きるかは「わからない」。

日本でも2011年3月福島原発事故が発生した際、同じようなことが起きていた。当初は放射線被ばくの影響について「わからない」ことが多く、初期の対応は迷走していたように思う。のちにさまざまな調査・研究を経て、被害の状況がある程度解明されてからも、その知見が一般の人々に浸透していたとは言いがたい。福島から他県への移住者に対して向けられた偏見の目や、特に学齢期の子供たちが移転先で浴びせられた「放射能がうつる」などといった科学的根拠のない言葉は、被災者の心をひどく傷つけるものであった。また事故から何年たっても福島産の農作物や海産物には風評被害がついて回った。

原発事故の後、日本のメディアで「正しく恐れる」という言葉が使われた。「わからない」ことについて科学的に正しい知識を身につけ、警戒しながらも、必要以上に怖がったり神経質になったりしないようにと呼びかけるものであった。感染症への対策にも「正しい恐れ」を持ってあたることが必要だ。そのためには研究者の導き出した科学的知見を、広く一般の人々に伝える方策がもっと多くあっても良いと思う。そのために私たちに出来ることはないか。それを深く考えさせられた世界インフルエンザ・デーだった。