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北京駐在スタッフの随想

No.018 「虫が媒介する感染症」

2018年7月17日
特任教授 林 光江

夏がやってきた。すがすがしい香りの蓮の葉が広がり、そのあい間から薄桃色の花が顔を出す。夜になると虫の声が耳を楽しませる。しかし夏に現れるのはもちろん嬉しいものばかりではない。以前住んでいた北京の部屋は窓越しに蓮池があったため蚊に悩まされることが多く、4月から10月くらいまで一年の半分以上は夜間に蚊取りマットを点けていた。

今月4日、中国気象局と江蘇省気象センターによる「蚊子出没予報(蚊の発生予報)」が発表された。スマ―トフォンのGPS位置情報に基づき、所在地の気温、雨量、蚊の生育環境などを分析し、蚊の発生状況を「比較的少ない」「正常」「比較的多い」「多い」の四段階に分けて知らせてくれるという。試してみると7月15日16時時点は「正常」で、16日朝5時は「多い」と予報されていた。「正常」は草地を避ける程度で良いようだが、「多い」になると蚊よけ対策を万全にしなければならない。

蚊は刺された部位のかゆみやその羽音によって我々の睡眠を妨げるだけでなく、日本脳炎、デング熱、マラリヤなど感染症の病原体を運ぶものでもある。今のところ北京で確認された、蚊を媒介とする感染症の多くは輸入症例であり、近年デング熱、ジカ熱、黄熱、リフトバレー熱などが中国国内あるいは海外から持ち込まれているが、北京の蚊はまだ感染の原因になっていないという。しかし地球温暖化に伴い、今後は北京でも現地の蚊による感染症が増えてくるかもしれない。根拠の一例として、ジカ熱やデング熱などを媒介するヒトスジシマカの生息地が年々北上しており、北京で見られる蚊の中でヒトスジシマカの比率は、2013年に3.5%だったのが、昨2017年には14.0%まで上昇している。

一方、亜熱帯に属する広東省では、もともと感染症の症例数が北京など北方の地域に比べて多い。2014年にはデング熱の症例が爆発的に増え、全国で46,864件もの報告があったが、そのうち4万件以上が広東省で発症したものだった。また海外からの輸入症例も多く、広東省の広州税関では今年に入ってから7月上旬までに1,367件の感染症輸入症例が見つかっており、このうちデング熱、マラリア、チクングニア熱など、蚊を媒介とした感染症も多い。

その広東省広州市の疾病コントロールセンター(CDC)が市民に呼びかけた、ある「昆虫探し」が先ごろ話題となっていた。話題の中心はカメムシの仲間であるサシガメという虫で、サシガメを見つけ情報を提供した人には1件あたり8元(日本円で約135円)の奨励金を与えるというのだ。サシガメは主に中南米に生息する昆虫だが、人の移動に伴って北米はじめ他の大陸にも広がっている。吸血性の種もあり、広東省では2016年にサシガメに刺された人が見つかった。サシガメはクルーズトリパノソーマ原虫という寄生虫に感染すると、シャーガス病という感染症を媒介する。サシガメの糞に含まれた原虫が、刺し傷や目・口などの粘膜から人の体内に入り込み感染するのだが、一般的に初期症状は軽く、感染したことに気づきにくい。またシャーガス病は潜伏期が長く、感染早期に治療しないと、数年から数十年後に心臓や消化器官に重い障害をきたして死に至ることもある。感染者からの輸血で感染した症例や、南米ではサシガメの糞尿に汚染された果実やサトウキビの生ジュースから感染した事例も報告されている。広東省ではまだシャーガス病の発生は確認されていないが、広東省に生息するサシガメにこの原虫が寄生しているかどうか、つまり潜在的なシャーガス病の危険性があるかどうかを調査する目的で呼びかけた昆虫探しだったようだ。

北京のような北の都市部で暮らしていると、こうした南方の感染症について普段聞くことは少なく、自分とは無関係のように思ってしまいがちだが、感染症は対岸の火事ですまされないことも多い。

ダニを媒介とする感染症である重症熱性血小板減少症候群(SFTS)は、2009年頃から中国で報告され始め、2011年に原因ウイルスが特定されたが、翌2012年には日本でも初めての症例が確認された。これは中国からウイルスが持ち込まれたわけではなく、日本国内のダニの間にもともと存在していたウイルスだと判明した。その後も日本で毎年60件ほどが報告され、近年は飼育猫や犬からもウイルスが見つかっている。

折しも今月上旬、西日本を豪雨が襲い、200名以上が亡くなり、多くの方が避難生活を余儀なくされている。災害後の今、粉塵による呼吸器疾患や、傷口からの破傷風などが問題となり、またこれから暑い日を迎え、水たまりに発生した蚊や生ゴミや堆積物に発生したハエによって日本脳炎や腸管感染症が広がることも心配される。さらに大規模な土砂崩れなど生態環境の変化によって、感染症を媒介する昆虫の生息状況が変わってくることも予想され、ダニやツツガムシなど、これまでその土地では見られなかった虫による感染症が現れる可能性もある。過去、多くの自然災害を経験してきた日本の知見を活かして、長期的な視野で感染症への対策を講じ、支援を続けていくことが求められている。