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北京駐在スタッフの随想

No.025 「文芸作品が映し出す中国社会」

2019年9月29日
特任教授 林 光江

9月上旬から10月にかけて、英国ロンドンのハムステッド劇場で、中国河南省のエイズ集団感染事件を題材にした舞台劇「The King of Hell’s Palace」が上演されている。アイルランド系アメリカ人の元外交官を父にもつFrances Ya-Chu Cowhigが脚本を書いた。私自身がロンドンに飛んで舞台を鑑賞することはできないので、劇場のホームページを開いてみると、こう紹介されている。「1992年、中国河南省では、世界中の富と権力の基礎を築くビジネスが活況を呈していた。そこには、株価と需要は無限に上昇するものだとする、新しく異常な取引市場があり、衛生部の若い職員であるYin-Yinは知らずとそれに取り込まれていた。しかし誇大な広告と急増する利益の中で、彼女は信じがたいある秘密を知る。そしてその秘密は彼女の職業や家族、そして祖国に対する忠誠心を試すことになる…」。

主人公Yin-Yinには実在のモデルがいる。内科医の王淑平(Shuping WANG)である。1990年代のはじめ、中国の貧しい農村部では「血漿経済」が隆盛を極めていた。ケ小平の主導する改革開放政策のもと、地方経済の自立が叫ばれ、自由経済が広まっていった頃のことである。血液を売ることで貧困から脱し豊かな生活を送れると、地方政府は農民に対して売血を奨励していた。河南省もその一つだった。当時この地域では、採取した血液中の血漿成分だけを取り出し、残りの成分は再び体内に戻す「成分採血」を行っていた。採血センターは採算を重視して採血機器の衛生管理を甘くし、血液検査をおろそかにしていたため、ウイルスに感染していた人から他の者にも感染が広がっていったのである。河南省は全国でもっとも被害が大きく、少なくとも30万人の農民がHIV(エイズの原因となるヒト免疫不全ウイルス)に感染し、10万人以上が命を落としたといわれている。

BBCのインタビューなどによれば、当時王淑平は河南省周口地区の防疫センターで働いていた。肝機能障害の患者が急増したことを不審に思った彼女が詳しく調べていくと、その多くにC型肝炎ウイルスの感染が認められ、数年後にはHIV感染が広がっていることを知る。地元衛生部門の上司に報告すると「よくやった。君は多く人々の命を救った」と労われたのだが、後日、さらに上層の責任者からは「このことを口外してはならぬ」と厳重に注意を受けた。しかしその後も「人々のために」と検査を続けていた彼女たちのセンターは96年11月に閉鎖されてしまう。上司や公安警察の警告を聞き入れなかったことで、彼女の家族にも不当な圧力がかかるようになる。彼女は仕事を奪われ、夫ともやむなく離婚し、2001年、逃げるようにしてアメリカへ渡った。現在はアメリカ市民権を取得し、血液分析の仕事に従事している。

脚本家のFrances Ya-Chu Cowhigが王淑平とはじめて顔を合わせたのは17歳の時、今から約30年前のことだ。仕事の関係で王淑平と知り合いだった父から紹介されたという。Francesの母は台湾出身で、父が北京のアメリカ大使館で働いていたこともあり、中国の風土や文化は彼女の成長にとって大きな影響を与えたと思われる。成人して舞台芸術にたずさわるようになり、これ以前に4本の脚本を発表し、アメリカやイギリスで上演されてきたが、うち2本は中国を題材にしたものだ。今回で中国三部作が完成した。

王淑平の境遇への同情は当然あるだろうが、Francesが「The King of Hell’s Palace」を書いたのは、中国政府に対する非難を目的とするものではなく、経済的利益の過度な追求がもたらす悲劇を描こうとしたのだという。王淑平はインタビューの中でこう語っている。公衆衛生の危機はいつ、どんなところにおいても起きるものであり、往々にしてその最大の被害者は貧しい人々である。それを防ぐために我々は何をすべきか。経済的利益と人を助けることの間で選択を迫られた時、我々はどうすべきか。

今回の上演にあたって王淑平は8月頃からたびたび中国政府の干渉を受けてきたという。中国内にとどまる王淑平の親族や昔の同僚は公安部門に呼び出され、「この作品は中国政府の名誉を棄損するものであるから上演をやめるよう(王淑平に)伝えろ」と迫られたそうだ。

中国では社会や政府を批判するような、政治的に微妙な問題は、文芸作品として伝えられることが多い。王淑平のように「不都合な真実」に向かって「直球」を投げれば、自分の身に跳ね返り、危険に身を晒すことになりかねないからだ。彼女のように故郷を追われたり、逮捕されたりした医師や社会活動家は少なくない。

中国のエイズ禍については、大学教授でもある小説家・閻連科が『丁庄夢』(邦題『丁庄の夢』、谷川毅訳、河出書房新社、2007年)という作品の中で取り上げている。エイズで命を失った少年の口を借りて、農村の悲惨な状況を語らせていく。閻自身も河南省の貧しい農村出身である。国内外の文学賞を数々受けている作家だが、社会問題や政治的な問題を扱って発禁処分にされた作品も少なくない。『丁庄夢』の中国語原著は2006年に香港と台湾で出版されたが、中国大陸では現在も出版されていない。

中国の言論統制や検閲の善悪についてここで述べることはしないが、数百万ともいわれる多くの人々を巻き込んだこのような惨事が再び繰り返されることのないよう、文芸作品からも過去の経験を学び、将来への教訓としたい。

追記:ワシントン・ポスト、BBCなどの報道によると、王淑平は9月21日心臓発作のためアメリカ・ユタ州のソルトレイクシティで亡くなったという。劇場のホームページは今のところ更新されていない。