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北京駐在スタッフの随想

No.026 「中国を騒がせた新興・再興感染症:最近の話題」

2020年1月13日
特任教授 林 光江

2019年12月末、中国湖北省の武漢で「原因不明」の呼吸器感染症が広がっているというニュースが流れた。市内の海鮮市場が発生源と疑われているが、武漢には2018年1月から、当時では中国唯一のバイオセーフティレベル4(BSL-4)実験室が稼働しているため、実験中のウイルスが何らかの理由で外に漏れたのではないかという噂まで流れた(注:バイオセーフティレベルとは感染性の病原体を封じ込める水準を示すもので、BSL-1からBSL-4まであり、BSL-4が最も高い)。目下、 現地と国の衛生部門が患者の治療と疫学調査、病原体の解明を進めており、2020年1月9日、病原体は新型のコロナウイルスであると「初期的に」判定された。香港や韓国でも、武漢への渡航歴のある人の中から感染が疑われる症例がすでに見つかっており、香港、台湾、シンガポールなど周辺地域は防疫体制の強化を進めている。

ここ北京では、武漢から1,000キロメートル以上離れていることもあり、それほど騒がれている印象はない。しかし、これから中国の旧正月・春節を前にした、人々の大移動「春運」が始まる。中には体調不良をおして帰省する人もいるだろう。同じコロナウイルスである重症急性呼吸器症候群(SARS)や中東呼吸器症候群(MERS)の時のように世界的に広がることのないよう、中国国内で適切な対策が講じられることを願っている。

振り返れば昨年末から、中国で立て続けに感染症のニュースが報じられた。

まず2019年11月上旬、北京でペスト騒ぎがあった。北京市の朝陽病院に肺ペスト患者2名が入院したと伝えられたからだ。北京市民が、感染の危険が自らにも及ぶのではないかとネット上で騒ぎ立てた。その後、内モンゴル自治区から移送された患者だと表明されて騒ぎが少し落ち着いたところに、11月17日、内モンゴルで新たに2名がペストに感染したことが報じられ、人から人への感染かと緊張が走った。こちらは野ウサギの生肉を食べて腺ペストに感染したもので、前述の肺ペスト患者との関連性はないとされている。

実のところ、中国では近年でもペスト症例が散見されている。この10年間を見ても、2009年に12件、2010年7件、2011と2012年にそれぞれ1件、2014年3件、2016年と2017年にそれぞれ1件。ペストは「遠い中世の疫病」ではないのだ。だがこれらはすべて甘粛省、新疆ウイグル自治区、チベット自治区、内モンゴル自治区など、北京から離れた地方で起きているため、北京の人々にとっては「遠い田舎」の話か、ペストが国内でいまだ発生していること自体知らない人も多かったのではないだろうか。それが「もしかすると自分たちも感染するかもしれない」と思った途端大騒ぎになったのである。

中国のペストの歴史を振り返ると、1894年香港での大流行が注目される。中国南部の広東省では1866年から腺ペストが確認されていたが、1892年には広東省全域に患者を増やし、1894年省都である広州で流行したのち、香港へ伝播したという。この時、病原体の解明のため日本から香港へ派遣されたのが、東京大学医科学研究所の前身である「伝染病研究所」初代所長の北里柴三郎と、後に第二代所長となる青山胤通たちだった。彼らは病原体の特定だけでなく、患者の治療や消毒、ネズミの駆除など衛生環境の改善にも尽力した。1899年に神戸から始まった日本でのペスト流行時の防御には、この香港での経験が生かされたという。

話を現在にもどそう。

北京でのペストの話題が未だ冷めやらぬ2019年11月下旬から12月初めにかけて、甘粛省蘭州市にある中国農業科学院蘭州獣医研究所でブルセラ属菌の感染者が多数出たことが分かった。12月7日の発表では血清学的検査を受けた317名のうち96名が陽性だった。中国農業科学院は中国農業部(「部」は日本の省庁に相当)傘下の研究機関であり、動物感染症研究のレベルも非常に高い。実験に際しての防護知識は豊富なはずなのに、なぜこれだけ大規模な感染が起きたのかといぶかる専門家が多かった。医科研が長年インフルエンザの共同研究を行っている黒竜江省のハルビン獣医研究所も中国農業科学院に所属するが、その後、ハルビンの研究所でも同じような感染者が見つかり、12月10日までに確定症例1件、疑い例2件、不顕性感染10件と報告された。

ブルセラ症は日本では1970年を最後に国内発症例が出ていない感染症であるが、中国ではそれほど珍しくない。いまでもウシやヒツジなど家畜からの感染を主として、年間約4万件の症例が報告されている。日本の国立感染症研究所のHPによれば「感染動物の加熱殺菌が不十分な乳・乳製品や肉の喫食による経口感染」が一般的であり「家畜の流産仔や悪露(おろ)への直接接触、汚染エアロゾルの吸入でも感染する」という。しかし蘭州獣医学研究所で感染が判明した学生たちはハツカネズミの動物実験しか行っておらず、一般的な原因とされる事例には当てはまらなかった。

その後の調査で、蘭州獣医研究所から500メートルの距離にある製薬工場が原因と判明した。2019年7月下旬から8月下旬にかけて稼働していたブルセラ症ワクチン製造の工程で、発酵タンクの消毒が充分でなく、ブルセラ属菌を含んだエアロゾルが排出されていたとのことであった。それが陸路にして2,800キロメートルも離れたハルビンにまで感染が飛び火した理由は、大学院の研修体制にあった。蘭州獣医研究所の修士課程学生は、9月の入学前に蘭州の実験室で実習を受け、その後の一年の間にハルビン獣医研究所で講義を受けることになっていた。ちょうど夏の間に蘭州で研修を受けた学生がハルビンに来て感染が見つかったものと考えられている。

感染症の発生には、気候風土の問題もあれば、人為的営みにより病原体が移動するといった「歴史の必然」と思える事例もある。感染症対策には点と点をつないでいく作業が必要だと言う。個別の事案を見ているだけでは分からないことも、広い視野から見渡すことによって判明する場合がある。もちろんそれでも分からないことはある。確かなことは、思い込みや、まして隠蔽などがなされることなく、一つ一つの事象に真摯に向き合わなければいけないということだ。

それにしても中国は広い。大都市の北京にいるだけでは分からないことが、中国にはまだ沢山あると感じている。