2020年3月現在、世界は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)拡大のただ中にあり、日本でもさまざまな活動が制限を受けている。九年前の3月11日、かつてないほどの大きな被害を日本にもたらした東日本大震災の被災者追悼式典も中止あるいは規模縮小を余儀なくされた。しかし、式典がどのようであったにせよ、この辛い記憶は決して風化させてはならず、また、あのような厳しい環境の中でも助け合い、支え合った人々の姿も忘れてはならない。
今回COVID-19の最初の症例報告がなされた中国湖北省の武漢市では患者の急増により医療機関が混乱に陥った。病院の様子を伝える動画からは、溢れかえった患者と医療設備の不足が見てとれた。さらに医療従事者にも感染が広がるなど、惨状としかいいようのないものだった。医療崩壊のあおりをうけたのは感染者だけではない。もともと持病のあった武漢在住の高齢者が治療を受けられず亡くなったという話も身近で聞いた。
感染拡大を防ぐために急遽行われた都市封鎖という突然の出来事によって「二重の危機」に直面した人々がいた。HIV感染者たちである。2018年末時点で湖北省にはHIV感染者が1万9千人いたという報道があるが、その多くは日常生活の中で感染の事実を他人に知られないように生きている。しかし突然の「非日常」が彼らを危機に陥れたのだ。
交通規制が始まった1月23日、中国は一年のうち最大の祝日「春節」を二日後に控えていた。多くの職場は約一週間の休暇となり、2月3日からはまた日常生活が始まるはずだった。一週間分の抗HIV薬しか持たずに帰省・移動した人も多かっただろう。ところが、ほとんど前触れなしに交通機関が使えなくなり、身動きがとれなくなってしまったのだ。抗HIV薬は服薬時間を厳格に守らないと薬剤耐性が起きやすく、治療に失敗することが少なくない。現在では数種類の薬が開発されているので、薬を替えて治療を再開することはできるが、替えた薬が自分に必ず効くという保証はないし、副作用の程度も異なる。また今後数十年にわたり服薬を続けることを考えると、使える薬の選択肢を多く残しておくためにも、可能な限り今使っている薬で治療を続けたい。
ダイヤモンド・プリンセス号でも高齢者や持病のある乗客が「薬が無い」と船内から助けを求めたことは記憶に新しい。そのような人々にとって薬は命に関わる必需品である。武漢でも同様のことが起きたのだ。突然、いつまで続くかもわからない都市封鎖が始まり、薬が足りなくなると気づいたHIV感染者の心中は察するに余りある。
「二重の危機」というのは、感染の事実を周囲に知らせていない感染者にとって薬の不足のほかに、思いがけず感染を知られてしまう恐れもありえるからだ。感染者らは通常、登録を行っている地域の医療機関へ定期的に出向き、無償で薬を受け取っている。しかし今回の都市封鎖によって登録地から離れた場所で身動きが取れなくなり、薬を受け取れなくなってしまった者も多かった。
ある感染者は勤務先の武漢から一週間の予定で湖北省内の実家に戻っていたところ、都市封鎖のため武漢へ戻れなくなってしまった。「薬をもらいに行けない」とインターネット上のHIV感染者グループに助けを求めるメッセージを流したところ、ひと月分を譲ってくれるという返答を得て、宅配便で送ってもらうことになった。ところが中身が抗HIV薬と分かったため、宅配便が途中で留め置きになってしまった。受け取るためには、通行書を発行してもらうか、実家の近くの診療医に届けてもらうかだという。通行証の申請には詳しい個人情報の提出が必要となり、また診療医は実家の家族と親しいのでHIV感染が家族に伝わってしまう。どちらの方法も取ることができない。薬を続けられないことによる被害は自分一人ですむが、感染が実家の地域内に知られたら、その影響は家族全体に広がってしまうと考え、彼は受け取りをあきらめた。
中国では同性愛に対する嫌悪感が強い。特に家系を守り、家を継いでいくことが何より重要だと考える伝統の中にあって、血のつながった子供をもてない同性愛は罪悪とされてきた。親も自分の娘や息子が同性愛者であることを受け入れられない場合が多く、まして周囲に知られることは一家の恥とされた。
一方、別の感染者である武漢の大学に通う女学生は幸運だった。彼女は武漢の金銀譚病院で薬を受け取っていたが、大学が冬休みに入り湖北省外の実家に帰っていたところに武漢の都市封鎖を知った。大学は2月中旬の始業を延期し、彼女は武漢へ薬を受け取りに戻ることが出来ない。感染を知らない家族に相談することもできず、不安に押しつぶされそうな数日を送っていた。
COVID-19の感染拡大によって多くのHIV感染者が登録地に戻って薬を受け取ることができないケースが増えている状況を受け、中国CDC(中国疾病予防コントロールセンター)は1月26日、登録地以外でも無償で薬を受け取れるようにする通達を出した。この通達によれば、登録先の医療機関からの証明書があれば、滞在先の医療機関で1か月分の薬を無償で「借り受ける」ことができる。
しかし当時、金銀譚病院はCOVID-19患者対応の中心地となっており、いくら電話をかけても繋がらない。諦めかけていた彼女に、救いの手が差し伸べられた。感染者コミュニティの知り合いから、あるインターネットのリンク先を教えてもらった。そこに情報を入力すればボランティアが病院へ行って薬を受け取り、送ってくれるというのだ。
実際の作業を担っていたのが武漢同志中心である。「同志」は中国語で「同性愛者」を意味するので、「武漢同性愛者センター」というところか。このセンターは同性愛者を含む性的マイノリティの権利を守るため2011年に設立された公益団体で、当事者のカウンセリングや情報交換、関連知識の普及活動などを行っている。同センターは武漢の都市封鎖開始からまもなく金銀譚病院と交渉を始め、2月中旬には抗HIV薬を感染者の手元に送り届けるサービスを開始することが出来た。ボランティアスタッフは毎日8時間ほどを金銀譚病院で過ごす。そのほとんどは待ち時間だ。他の患者と同じように長時間、列に並んで受付を済ませ、また順番待ちの列に並び、薬を受け取る。受け取った薬を感染者ごとに分けて、抗HIV薬と分からないよう厳重に包装し、送り状に宛先を記入して送り出す。
病院に入るボランティアスタッフにとってもウイルス感染のリスクは常にあるので、彼らは病院内で防護服を身に着けているが、この防護服やN95マスクについてはSNS上で一般の人々から寄付を募っている。またこの活動はもちろんボランティアの力だけでできるものではなく、金銀譚病院の担当医師の協力があってのことだ。HIV診療センターの阮連国医師によれば、患者は登録先の医療機関か主治医から証明書をもらい、金銀譚医院HIV診療センターに送ってくれば同センターで3か月分の薬を処方することができるという。阮医師も自身の連絡先を公開し、感染者からの相談にのっている。
このようにインターネットを使いこなせる世代は、ボランティアや理解のある医師たちのおかげで命をつなぐことができている。しかし一方で、年配のインターネットに疎い感染者が取りこぼされる事態がおきている。薬が切れて1か月以上の人々もいるという。今後はなるべく早くこの人たちへの対応ができるようにしたいとボランティアたちは語っている。
日々伝えられる世界的な感染拡大のニュースは私たちの心を重たくし、生活面で不自由を強いられることも増えている。そんな中、このような助け合いの話を聞くと、心が休まる。
日本でも今、感染者が爆発的に増え医療崩壊につながることが懸念されている。医療機関の負担を軽減するためには、大局からの政策的措置が必要だが、同時に、私たちも一人一人が理性的な判断をし、また余裕のある人は誰かのために役立つことを考え行動できれば、これまで通り、必要な人に必要な医療を届けることができるのだと思う。