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北京駐在スタッフの随想

No.040 「コロナ禍で生まれる「新語」」

2022年5月28日
特任教授 林 光江

2か月ものロックダウンが続く上海では人々のストレスもかなり高まっているようだが、そんな中、ある記事が目に留まった。「新型コロナ感染者に汚名を着せてはならない」というものだ。

記事によると近頃、特にネット上などで、新型コロナウイルス感染者に対して「小陽人」や「羊」という呼び方がされているそうだ。「小陽人」の「陽人(yang ren)」は陽性者ということだが、外国人を指す「洋人(yang ren)」も同じ発音だ。一説によると、アメリカ留学中に感染した学生が自嘲して自らを「小陽人」と呼んだのが始まりだとも言われている。中国では、子どもや小鳥など本当に小さなもの以外に「小(xiao)」を使う場合、良い意味をもたない。たとえば「小人(しょうじん xiao ren)」は「君子」や「大人(たいじん)」と対をなす言葉であり、「小人間居(閑居)して不善をなす」というように、つまらない人、品性の卑しい人を指す。日本に対して反感を持つ中国人が「小日本」と呼ぶこともある。では「羊」についてはどうか。中国語で陽性の「陽」と「羊」はともに「yang」という発音なので、陽性者を「羊」と呼び始めたらしい。年老いた感染者を「老羊」、女性の感染者を「母羊」、子どもの感染者を「小羊」、感染者の出た家を「羊家」などと呼んだりするそうだ。

このほかにも、新型コロナにまつわるさまざまな新語がある。例えば白い防護服に身を包んだ医療従事者やボランティアを、人々は親しみを込めて「大白(da bai)」と呼ぶ(ここでは「大(da)」が使われる)。ところが一部地域では感染防止に専心するあまり、隔離対象地域内に住む重病人を域内に引き留めて病院へ行かせなかったり、命令に従わない住民を殴ったりなど、人間性が問われる事件も起きている。このような場合、防護服を着た人々を「白衛兵(bai wei bing)」と揶揄することもある。これは1966年から1976年にかけて文化大革命の時期、過激な運動に走り、武力闘争や破壊活動を繰り返した「紅衛兵」になぞらえたものだ。

また、「弾窓(tan chuang)人員」という言葉も多用され、公式の会見や文書でも使われるようになった。「弾窓」とはパソコンやスマートフォンに表示されるポップアップ画面のことで、もし接触者と判断されると、中国の健康アプリには「ただちに居住区の担当者に連絡し、求められる防疫義務を履行すること」や「隔離義務を履行すること。防疫政策に違反した場合は法律的責任を追及される」などのポップアップ画面が表示される。この表示の出た人を「弾窓人員」と呼んでいる。中国において感染防止対策違反は非常に厳しく処罰される。「妨害伝染病防治罪(伝染病予防治療妨害罪)」を犯した者には3年以下の懲役が科せられ、影響の大きい場合は3-7年の懲役とされている。5月25日にも上海で、工事現場の労働者数名に陽性が見つかったのに報告せず隠ぺいした責任者がこの罪に問われている。防疫対策に違反した者は「処罰されるべき」という考え方もいまだ広くあって、上述のような警官やボランティアによるゆき過ぎた行為にもつながっている。

話は戻るが、冒頭の記事で「小陽人」や「羊」などの呼称は患者を尊重せず、差別や排斥感情を助長するものだと言っている。最初は悪気のないからかいやユーモアだったとしても、次第に感染者をおとしめることにつながり、人々の間に心理的な障壁を作ることになる。

「我々」は安全、「彼ら」は危険という考え方だ。

アメリカの作家スーザン・ソンタグは著書『病という隠喩』の中で「病気が隠喩に頼る時は“未知な何か”がそこに潜んでいる」、隠喩を使うのは病が「恐怖心をかきたてる」からであると述べている。古くは「らい(ハンセン病)」から「癌」、「エイズ」まで、病気に隠喩的意味をもたせたり、感染者に「汚名」を着せることによって、自らの不安やストレスのはけ口にしたり、罹患していないことで優越感を覚えたり、ということが行われてきた。しかし、これにより感染者が精神的に追い込まれ、病気を隠したまま治療を受けないようなことも起きる。特に感染症の場合は、過去の行動歴や接触歴を隠して、新たな感染を広げることにもつながるだろう。

個々人の感染予防はもちろん依然として重要であるが、新型コロナウイルス感染はもはや個人の責任を追及される感染症ではなくなってきていると思う。感染は隠さず、速やかに対処するべきである。感染者に対する忌避の感情をかき立てることに何ら得はない。

北京でも地区ごとの移動制限、行動制限が始まり、住民の不安が徐々に高まっている。患者を揶揄する呼び名は中国に限らずあると思うが、特に中国は同音異議語で「言葉あそび」をすることが多いように思う。センスがあるなと感心することもしばしばであるが、新たなストレスの中で好ましくない「新語」は増えないで欲しいと願っている。