昨年2023年末、国家衛生健康委員会と国家中医薬管理局は、11種類の感染症につき診療方針の改訂を行った。具体的にはペスト、コレラ、炭疽、細菌性赤痢、流行性脳脊髄膜炎、百日咳、猩紅熱、ブルセラ症、酷熱病、水痘、重症熱性血小板減少症候群(SFTS)である。目下、衛生当局がこれら感染症の動向および制圧に特に注力しているということの現れかと思う。
中国語でペストは「鼠疫」という。鼠によってもたらされる疫病という意味である。単語としていつから使われ出したかは不明だが、「鼠」「疫」ともに、『説文解字』という中国最古の字典に収録されており、「疫」は「民皆疾也」(民みな病む)と解説されている。日本では1926年以降ペストの発生がないが、中国では今でも散発的に症例が出現する。昨年も8月に4件、11月に1件の発症例が報告されている。昨年の症例の詳細は明らかでないが、以前は内モンゴルや新疆ウイグル自治区で、野ウサギやマーモットといった齧歯類の肉を食べて感染した症例が報告されていた。
冒頭の診療方針改定を受けたものか、同じ頃、伍連徳(Wu Lien-teh)博士を讃える記事をいくつか見かけた。
1910年の秋から冬にかけて、満州でペストが大流行した。9月中旬、ロシアと満州の国境地域にある都市ダウリヤで最初の患者が確認されたのち、満州里(マンチュリ)に感染が広がった。10月27日には黒竜江省ハルビンのロシア租界でペストの第一患者が発見された。11月6日、鉄道作業員が高熱を発して2日後に死亡。7日には傅家甸(フージアディエン)で中国人猟師2名の感染が確認され、ここはのちにハルビンで最も被害が多い地域となった。その後ひと月足らずで新京(現、吉林省長春)、奉天(現、遼寧省瀋陽)などの大都市にも波及した。
対応のために清朝から声がかかったのが、当時31歳の伍連徳だった。広東省に祖先を持ち、1879年イギリス統治下マラヤのペナン島に生まれた華人(現地国籍を持つ中国系住民)である。イギリス・ケンブリッジ大学において中国系研究者として初の医学博士号を取得し、ドイツ、フランスでも研鑽を積んでいる。学位を取得してマラヤに帰国後、当初は医官を希望したが、当時のイギリス領で医官になれるのはイギリス人のみだった。シンガポールでの研究生活を経て、ペナンに戻り診療所を開設した。転機となったのは1905年、清王朝が5人の大臣を海外視察に派遣したことである。途中ペナンに立ち寄った際に知己を得た外交官・施肇基の紹介で、伍は1908年中国に渡る。天津で陸軍軍事医学堂副学長となり、その後約30年にわたり中国でペストやコレラの流行対応や衛生事業、そして医学教育に携わることとなる。
1910年12月24日、伍は初めてハルビンの傅家甸に到着した。西洋医は少なく、いても中国人を診察する医師はいなかった。また細菌による感染症を抑える抗生物質が発見されるまでにはさらに19年待たなければならない時代でもあった。
それまでにヨーロッパ、中央アジア、中国南部で流行していたペストは、菌を保有するネズミやノミが媒介する「腺ペスト」がほとんどだったため、当初ハルビンでも同様にネズミ駆除を開始したが、収まる気配がなかっただけでなく、処置したネズミからもペスト菌が発見されなかった。現地の気温は零下数十度に達し、ネズミの活動は活発でなく、ノミもほぼ見つからない。伍連徳は空気感染を疑った。極寒の地でこれだけ多くの人が感染するというのは「肺ペスト」ではないかと考えたのだ。感染死亡者を解剖したところ、肺にペスト菌が確認された。さらに調査を進めてみると、同地区にマンチュリから来たロシア人の毛皮製造小屋があった。ロシア人や中国東北部の人々が好むテンの毛皮は稀少なため、シベリア・マーモット(モンゴル語でタルバガンという)をテンの代用としていたのだが、果たして小屋の毛皮から大量のペスト菌が見つかった。
肺ペストは咳などによって人から人へ感染する。伍は清朝政府に大規模な隔離措置を進言した。それまで清朝は「小さな政府」で、市井の人々の生活への介入は無に等しい状態だったが、伍の進言を受け、隔離を許可した。また伍は医療従事者だけでなく一般の人にもマスクを推奨したことで知られている。それから、当時の中国人の常識では、死者は土に帰すもので土葬が中心であったが、伍連徳は感染拡大を防ぐためにと火葬を提案した。当時の倫理観に基づけばとうてい受け入れ難い進言であったが、これも清朝政府の決断によって実行された。当時の感染拡大には、中国国内で最も発達した鉄道網も関係している。1911年1月になると奉天(1月2日)、大連(4日)、北京(12日)、天津(13日)、そして山東半島・済南(2月1日)にも広がったため、南満州鉄道(満鉄)や清朝政府は鉄道の検疫も実施した。
これらの対策により、満州のペストは収束に向かい、1911年4月3日、奉天で「万国ペスト研究会」が開催された。これは歴史上はじめて中国が主催した国際学術会議だと言われており、中国を含め11カ国から北里柴三郎などペストの専門家や研究者が参加した。その後、伍連徳は1912年11月中国東北部の東三省防疫事務総処総医官に任ぜられ、1930年国民党政府が上海に設立した海港検疫管理処の処長にも任命された。日中戦争期の1937年、日本軍によって上海の寓居を破壊されたためマラヤに戻り、再び開業医として地元の人たちのために診療を続けた。中国滞在中の30年間には防疫、衛生事業のほか、中華医学会を設立し『中華医学雑誌』を創刊した。中国人による初の近代化された病院「北京中央医院(現在の北京大学人民病院)」を創設し、ハルビン医科大学などの医学教育機関を設立。また国際微生物学会の発起人の一人ともなり、中国の細菌学、微生物学の国際化にも大きな貢献をした。
このように「ペスト闘士」(彼の自伝の書名でもある)として有名な伍連徳は、中国の英雄であるが、その業績には日本をはじめ諸外国も一定の役割を果たしている。
当時の満州は半植民地状態であり、ロシアと日本の勢力争いの舞台となっていた。ペストへの対応は両国と清朝にとって覇権獲得のための重要課題でもあった。また当時のハルビンは中国東北部における経済と政治の中心であり、世界33カ国から十数万人の外国人居留民が滞在していた。このため日本、ロシア以外の国々もこの感染症の対策のために医療団を組織するなど協力を惜しまなかった。
そもそもペスト菌は、1894年香港で大流行が起きた際、日本から派遣された調査団の北里柴三郎と、フランス政府から要請され滞在中の仏領インドシナから香港に向かったアレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin)がほぼ同時に発見したものである。さらに北里ら調査団は、患者の治療、ネズミの駆除、家屋・土壌の消毒などを香港政庁に提言し、これにより香港の流行は終息した。
1899年には満州南部の港湾都市である遼寧省営口で腺ペストが発生した。当時営口には4万4千の登録人口ほか、山東省を中心とした出稼ぎ労働者が2−3万人滞在していたという。港湾労働者に感染が多く見られたため、感染源が南方から船の旅客や積荷によって運ばれたものと推測したイギリス人医師が港湾検疫を提言し、清朝政府が検疫を許可した。10月には外国領事らの働きかけにより営口衛生局が作られ、清朝政府、東清鉄道、居留外国人が経費を分担した。また現地の邦人社会が日本領事に医師の派遣を依頼した結果、医師11名、助手4名からなる日本医師団が派遣され、その中には横浜港の検疫医だった野口英世も参加している。共同トイレの設置、下水の処理、清掃、ネズミの駆除、井戸の新設などを提案し、戸別検査や巡回を行ったところ、外国人の介入を嫌った中国人社会から反発を受けたという。ペストが収束した1900年4月日本人医師団は解散、営口衛生局も撤廃された。
1901年、ハルビンと同様に外国人租界が置かれていた上海でペストが流行した。共同租界の工部局衛生課が、香港で行ったと同様のペスト対策として、感染したネズミの検出やペスト患者の隔離を行なったが、強制的な対策に現地の中国人が反発した。最終的に中国人自身がペスト患者のための病院を設置し、中国人医師が検査を実施することで、解決へと向かった。
このように各国科学者による知識の蓄積や対応策の積み重ねがあり、また現地住民との軋轢を経ながらも、それを乗り越えることによって、有効な感染症対策が行われていったのである。2014年西アフリカでのエボラ出血熱流行の際、国際的な医療協力が行われたものの、現地住民の伝統的な葬儀の儀式が感染を広げていることをめぐり、医療従事者と住民が対立したこともあったが、各部族の宗教的指導者を巻き込んで助言や協力を求めたことにより、双方が納得できる案を生み出していったと聞く。
今や感染症を発生地域にとどめておくことが難しい時代である。新型コロナウイルス感染症COVID-19が発生した際にも各国の研究者が競い合い、また時に共同研究を行いながらウイルスを特定し、変異株を追い続け、それらの蓄積の上に有効なワクチンが生まれ、感染対策が作られていった。
毎年ノーベル賞発表前後の喧騒を思うと「国の英雄」を求めがちなのは日本も同じかもしれない。だが感染症に国境はない。感染症の予防や対策には一国の「英雄」だけでなく、これからも国境を越えた協力が不可欠である。