2025年1月初頭、カナダや台湾初の中国語ニュースで「中国で未知のウイルスによる呼吸器疾患が流行」という記載を目にし、息をのんだ。その後、1月6日付けNewsweek日本版にも「中国でインフルエンザ様の未知のウイルス『HMPV』流行の懸念」という表題のニュースを見つけ、困惑した。もちろん「HMPV」という名前がついているので、「未知」であるはずがない。だが、2019年末に当時「未知」だったウイルスが広まり、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を引き起こした暗い記憶がまだ残る。
hMPV=ヒトメタニューモウイルスは2001年にはじめて確認されたウイルスである。気管支炎や肺炎などの呼吸器疾患をひきおこすウイルスの一つで、幼児の間で流行することが多い。大人が感染した場合には一般の「風邪」症状で済むことがほとんどだが、乳幼児や高齢者では重症化することもあるので注意が必要である。小児科ではよく見られるものだそうだが、なぜこのように大きな話題になっていったのだろうか。
ニュースを遡ってみると、昨年12月19日発表の中国疾病コントロールセンター(中国CDC)Webサイト内の「全国急性呼吸器感染症定点機関観測状況(2024年第50週)」を引用する中国国内のニュースが見つかった。この「観測状況」自体は中国CDCが毎週定期的に公表しているもので、呼吸器疾患の採集サンプル中の病原体の比率などを紹介している。2024年第50週、つまり12月9日から15日までの間のサンプルでは、急患外来診療においてインフルエンザ、ライノウイルスに続き3番目に多いのがhMPVであり、北京を含む北方地域に限ると2番目に多いこと(南方地域では第3位)、またhMPVは特に0-14歳に多く出現していることが示されていた。
この中国国内ニュースの主題は、14歳以下の症例でhMPVの陽性率が増加しているが、呼吸器疾患にはよく見られるウイルスであり、今のところ特効薬はないので、むやみに抗ウイルス薬を使用しないようにと呼びかけるものだった。
ところが、冒頭のような海外発の中国語ニュースで「感染爆発」「医療崩壊」「多くの児童が死亡」といった表現が頻出するようになり、SNS上では込み合った病院の様子も流れたそうだ。このようなことから、日本を含む海外でも中国のhMPV感染のニュースが広がっていったものと思われる。
ちなみに中国では1980年代から長期にわたり人口抑制政策が採られており、それが解除された今でも一人っ子の家庭が多い。大人はたいせつな子どもに少しでも良い医療を受けさせたいと考え、大都市の小児科専門病院に殺到する。一人の子に複数名の大人が付き添うことも多く、普段から人でごった返している。それが冬の呼吸器疾患増加でさらに込み合っていることは想像に難くない。
ところで上述したNewsweekの原文表題は"HMPV: China's New Virus Outbreak Explained"であり、「HMPVー中国における新たなウイルスの流行を解説」とでも訳せばよいかと思う。原文には「未知の」という言葉は入っていない。日本版の表題は意図的に閲覧数を稼ぐための「超訳」だったのだろうか。このように報道が繰り返される中で扇動的な表現も増えていく。
hMPVを中国語で「人偏肺病毒」と書くが、この文字列が与える印象も強烈だと感じる。また日本語でも「ヒトメタニューモウイルス」という聞き慣れない言葉に不安を覚えるのではないだろうか。さらに言えば、昨年12月米国下院特別小委員会が、中国武漢にあるウイルス研究所の事故によって流出したウイルスがCOVID-19の起源である、とする最終報告を発表した。それから間もない時期でもあり、人々の心に「中国の隠蔽」、「今回の感染にも何か隠されているのではないか」といった疑念を生じさせた可能性も否定できない。
WHOは1月7日付けで、中国でhMPV感染が増加しているものの、感染規模は想定範囲内であると発表した。また中国の国家衛生健康委員会も1月12日に記者会見を開き、現在は呼吸器感染症の多発期であるが、目下流行している病原体はすべて既知のもので、新たな感染症は発生していないと表明した。手洗いやマスクの適宜着用など、基本的な感染対策を周知することは重要であるが、極端に恐怖心をあおるような報道は無くなるよう期待する。
新型コロナウイルス感染症流行の中で「インフォデミック」という言葉が生まれたことを思い出した。誰もが容易に情報を発信することのできる現在。あふれる真偽不確かな情報に煽られず、恐慌状態に陥らないように、科学的な知識やそれに触れるための技術を持つことも感染症対策にとって重要だと改めて感じた。